『その意味』
2月14日という日は、女性の方から愛する人に贈り物をする日だと昔、父の元を訪れた蘭方医が言っていたことを千鶴が思い出したのは、その2月14日の三日前の2月11日のことであった。
(どうして、今日になって気づいちゃったんだろう)
これが16日だったり17日だったりすればああそんな行事があったよねぐらいに思えたというのに。千鶴は、繕い物の手を止めてハァ。と、ため息をついた。
思えば、新選組にやってきて乙女な行事にはとんと縁がなくなっていた。それは仕方のない話だ。千鶴は、女性としてこの場にいるわけにはいかず男性としてここに住まわせてもらっているのだから。住まわせてもらっているというのも、少々おかしいか。正確に言うならば、知ってはいけないことを知ってしまったが故にとどめ置かれているというほうが正しい。しかし、軟禁などということばは千鶴にとってもおそらく千鶴の事情を知る幹部の中にも忘れ去られて久しい言葉であった。だからといって、千鶴が自由であるというわけでもなかったが。
(好いた殿方かぁ)
幼いころ、バレンタインなるものに自分はひどく憧れたことも思いだす。いつか自分も好いた方に贈り物をしたいと思ったものだ。大きくなるにつれ忘れ去っていたのだが、思い出してしまうと気になってしまって今に至る。
「……駄目、だよね……」
渡したい人はいる。でも、千鶴がそんなことをすればきっと彼は困ってしまうだろう。任務で千鶴を守っているだけの彼には千鶴の想いなど、重荷以外の何物もない。
真実、千鶴は彼にとってお荷物以外の何物でもない。それは千鶴自身が重々承知していた。
(何やってんだろう、私)
千鶴は、文箱の脇に置いたそれを眺めた。以前、襟巻を手作りした時彼はそれを喜んでくれたけれど、後になってあれは千鶴をがっかりさせまいという彼の思いやりなのだと気づいた。だって、下手だったのだ。今でこそ上達しそこそこみれるものになったけれど、当時は裁縫は本当に苦手で几帳面な彼が気に入る品ではなかった。
だから、今回はお店のもので……と、近藤から以前いただいたお小遣いで買い求めたものなのではあるが。やはり今回も同じく渡すことができず、2月14日は過ぎ去った。
でも、まだ諦めがつかない自分が本当に情けない。
「……はぁ」
二度目のため息は思いのほか大きく、千鶴は自分が思っている以上にがっかりしていることに気づく。だが、どうすることもできない。
力なく文箱の脇におかれた小さな包みを持ち上げ、そっと開く。はらりと落ちるのは、髪紐である。
千鶴はそれを握りしめて胸に引き寄せ、目を閉じた。
(斎藤さん、こんなものを買ってしまってごめんなさい)
決して渡したりしないから。でも、渡したかったの。なんだかとても悲しくて、千鶴は少しだけ泣いた。
「……」
バレンタインなるものを聞いたのは、それが過ぎた2月15日のことであった。何故今頃、言うのだと思った。
恋人たちが愛を誓い合う日という言葉にぎょっとしたが、日頃から何かお返しをしたいと思っていた斎藤はついふらふらと買い求めてしまった。
手元にあるのは、かわいらしい櫛である。少々値が張ったが見た瞬間彼女のためにある櫛だと思ってしまった故、仕方ない。包んでもらっている間、店の主にはさんざんからかわれていささか不機嫌になった斎藤であるが千鶴の笑顔を思い出しすぐにその機嫌も直る。
前に襟巻を仕立ててもらった。彼女は斎藤のものだと最初は認めなかったが自分が思った通り斎藤のために作ったものとわかり、素直に嬉しかった。今でも千鶴は拙い出来であったと取り戻そうとするが斎藤は返してやる気など毛頭なかった。他でもない千鶴が斎藤のためだけに仕立てたものである。斎藤は本気でそれを墓場まで持って行くつもり満々であった。自分のような男でも、そのぐらいの思い出は許されるだろうと思っている。
だが、貰いっぱなしでは申し訳ない。それゆえ、このバレンタインという機会はとても良いものに思え、買い求めたまではよかったが。
(何と言って、渡せばよいのだ?!)
千鶴の部屋の前までやってきて、迂闊にもそのことにようやく思い至った。
バレンタインは昨日だった。何やら、出遅れ感満載で恥ずかしいことこの上ない。しかも、千鶴がそれを知っているかが不明である。知っていたとしても、恋人と愛を誓い合う日だと知っていた場合彼女が嫌がったりしたら、もう本当にどうしたらいいかわからない。
他意はないのだ。いや、少しはある……のだが決して無理強いしたいわけではない。第一、斎藤はただの護衛役である。千鶴が特別な感情を抱くような相手ではないのだ。
(こ、ここはひとつ。日頃の感謝を前面に出して)
斎藤は心の準備をしてみた。まずは、脳内で爽やかに千鶴にむかって話しかける自分を想像した。まるで己ではない様子に、脳内で思い浮かべた千鶴が心配そうな顔をしただけであった。
(いかん、不自然過ぎた!)
で、では。と、斎藤はいきなり櫛を千鶴に突き出してみた。もちろん脳内で想像したことだ。すると、脳内の千鶴は戸惑った表情を浮かべ斎藤さんの櫛、かわいいですねとのたまった。
(む。そうではない!)
爽やかも駄目、無言も駄目。斎藤は追い詰められた。いっそこのまま帰ってしまおうかと思った時、障子の向こうにいる千鶴が大きなため息をついた。斎藤はギクリとした。
(いつまでも部屋の前でうろうろしている俺が不審であるが、雪村のことだ。言いだせず困り果てているのか)
それはそうだろう。年頃の娘の部屋の前で、いつまでも佇むなどしてはならぬことだ。
「……」
櫛を見つめ、息を大きく吸う。それから吐き出す。
ここまで来た以上引き返すのも男らしくない。それに、斎藤が千鶴の部屋にきて長いことその前でうろうろした挙句戻って行ったことで千鶴に新たな不安要素を与えてはならないと思う。
よし。と、斎藤は気合いを入れた。
「雪村、開けるぞ」
「えっ? ま、」
障子をあけると、千鶴は驚いて振り返った。千鶴の大きな目には涙が浮かんでいる。驚いたせいで、パチパチと瞬きしたせいで涙がつつっと頬を伝う。これは想像してなかった。斎藤は驚きのあまりに足を部屋に踏み入れたまま固まってしまった。
「あ、えっと……あれ? だ、大丈夫です。何でもないんです」
おかしいな。と、言いながら千鶴が着物の袖で涙を拭う。あまりにごしごしと拭うものだから目元が赤くなってしまった。
「そんなに擦るな」
慌てて、近寄って千鶴の前で膝をつき千鶴の目元に指を当てる。武骨な男の手で拭ってやるのもよくはないのだろうが、ごしごし擦るよりはマシであろう。
柔らかな千鶴の肌を濡らすそれを拭っていると、ほのかに千鶴の頬が赤く染まった。
「……」
「……」
目が合った。互いに何故だか目が逸らし難く、見つめ合うことしばし。きめ細やかな肌に触れたままの指から伝わる熱にこちらもだんだんと顔が赤くなる。斎藤の視線が千鶴の目元から降りていって、赤い唇の辺りで止まる。その唇に呼ばれているような気がして斎藤は顔を少しだけ近づいけた。だが、すぐに我に返る。
「す、すまん」
「す、すみません!」
互いにぱっと離れた。千鶴は目を逸らし手で顔を覆っている。その耳は赤い。顔を見られていないことをいいことに、斎藤は千鶴の様子を観察した。
素直にかわいいと思った。
そう思ったら言葉がするりと出てきた。
「雪村、一日遅れだがこれを」
「え?」
赤い顔のまま、千鶴が斎藤が差し出したそれを見る。かわいらしい細工の櫛を手渡すと千鶴はより赤い顔をして斎藤を見上げた。
「あの、これって」
「あ、いや……その貰ってくれ。ではな」
なんだか恥ずかしくなって、斎藤は慌てて立ち上がった。部屋を出てゆこうとすると、千鶴が斎藤の着物の裾を掴んだ。
「雪村?」
「……あの……これ。一日遅れましたけど」
真っ赤になって、顔を俯かせたまま突き出されたのは髪紐である。
これは、どんな意味なのだろうか。千鶴は、一日遅れと言った。バレンタインの意味を知っていて斎藤にこれをくれたのだろうか。
だとすれば、そういう意味なのだろうか。
顔が赤くなるのが自分でわかった。斎藤は呆然とした。
「ご迷惑、ですよね」
ぽつりと言われた言葉にはっとする。勘違いしているのか、千鶴の顔が悲しげである。斎藤は、慌てて否定する。
「違う、迷惑などではない! 雪村、これは俺のために買い求めたのだな?」
「は、はい」
「……」
この瞬間の幸福を何と呼ぼうか。斎藤は、珍しく本能のまま動いた。
まずは障子を閉めて千鶴の前に膝をつく。
「バレンタインと言ったな」
「……はい」
小さな声で肯定した千鶴の髪に手を伸ばす。頭を撫でてそのまま頬に手を滑らせた。千鶴が小さく震える。だが、それは恐れからではないもっとほかの要因だろうと鈍い斎藤でも気がつく。
「俺も、アンタだけのために櫛を買った。迷惑だろうか?」
千鶴が首を横に振った。
「雪村、バレンタインの意味をアンタは知っているか?」
千鶴は、動揺したように目を伏せた。
斎藤の唇が嬉しそうに弧を描く。
「千鶴」
初めて斎藤は、彼女の名を呼んだ。そのことに気付いた千鶴が顔をあげた。その千鶴の頬を両手で挟むようにして引き寄せる。
「千鶴」
優しく名を呼んで斎藤は、斎藤の名を紡ごうとした千鶴の唇にそっと己のそれを押し付けた。
終
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昨日アップしたかったのにまさかの寝落ちでアップできなかった。今日も吹雪で呆然としているうちに、こんな時間に。一日遅れの話なので今日までにアップできてよかったです。
ここまで読んでくださってありがとうございました!